浦田さんについて
浦田さんの私への取材が本日始まりました。
元超大手印刷会社のディレクターさんだったそうです。
私と同学年の女性の方でした。
ライターさんというのは、キャリアを積むとだんだん、ディレクターの方へ仕事が変化していくのですが、ディレクターがライターになるというのも、ちょっと珍しいかも。
トにもカクにも、女性の視点から見た、私がどう表現されるか。
ぜひ、ご一読下さい。

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浦田さんの私への取材が本日始まりました。
元超大手印刷会社のディレクターさんだったそうです。
私と同学年の女性の方でした。
ライターさんというのは、キャリアを積むとだんだん、ディレクターの方へ仕事が変化していくのですが、ディレクターがライターになるというのも、ちょっと珍しいかも。
トにもカクにも、女性の視点から見た、私がどう表現されるか。
ぜひ、ご一読下さい。
私が生まれたのは1970年の5月。その頃の日本は好景気に沸いていて、ちょうど大阪万博が開催された年でもあります。このブログを読んでいただいている皆様のなかには万博へ行き、太陽の塔へ登られたという方もいらっしゃるのでは?実家は北区の千本北大路で、その辺りは西陣と呼ばれ、織物が盛んな地域です。生家でも帯を織る仕事を営んでいました。工場と家は続いており、機械のがたがた動く音の中、両親が働く姿を常日頃目にする環境でした。父は、機械織りの帯ながら、織り傷ひとつ許すまいとする職人気質の人でした。品質にこだわり、毎晩遅くまで仕事をしていた父の姿を記憶しています。
1983年、中学校へ入学。前年には「積木くずし」の本がベストセラーになるなど、“不良”文化が花盛りで、長ランをはおった男子生徒や長いスカートを履いた女子生徒が怖い顔で学内を横行していた頃ですね。私はといえば、成績も上位に位置し学級委員長に選出されたりと、こわおもての人たちを横目に、比較的穏やかな中学生活を送っていました。
1年の浪人を経て、追手門学院大学の文学部社会学科に入学。東西ドイツ統一の年であり、国内ではセンター試験制度の導入、前年には長かった昭和が終って平成が始まるなど、世の中がざわざわと変化をとげるなか、私の人生にも新しい風が吹き始めました。大学のクラブ活動は放送局に入部し、“ものづくり”のおもしろさに開眼したのです。文化祭の企画を立てたり、ビデオをまわして映像作品を制作するなど、何かをつくるということに夢中になりました。勉強よりも部活が優先で、夏休みや土日など授業が無くても大学へ出掛け、舞台の脚本を書いたりイベントの企画を立てたり。アイデアを実際の形につくりあげていく、という作業がおもしろくて仕方がありませんでした。
バブルの華やかなムードは消え、すっかり景気も冷え込んだ94年に大学を卒業。就職難のなかやっと採用された会社は、入社の翌月には私を含む新入社員のほとんどをリストラしたのです。ここから私の人生は紆余曲折、大迷走が始まりました。なにせ卒業後の約2年間に6度も転職。ラッセンの版画販売や、一日中歩き回って店舗用地を探す建設プロデュースの仕事、果ては飲食店のキッチンやバーテンダーも経験し、自分の店を持ちたいと思うようになりました。
2000年、はりがみ屋は提供開始直後から毎日新聞や産経新聞、そのほか専門雑誌など数多くの媒体で新ビジネスとして取り上げられ、注目を集めました。またベンチャービジネスコンペ大阪2000の創業者部門で優秀賞を受賞するなど、好スタートを切ることができたのです。宣伝費はまったくかけず認知度が上がり、かつ評価を受けたことは嬉しかったですね。自分のアイデアがこんなにも評判になり、受け入れられるなんて。
2002年11月に、株式会社ピア・トゥ・ピアからの分社化という形で創業した株式会社オールワンズマイトですが、起業したといっても、最初は私一人で活動し、社員は他にいませんでした。オフィスも他の企業と共同で借りていましたね。2004年2月に現在の事務所へ移転。自社だけのオフィスを構え、創業2年目にはインターンシップの学生を2名受け入れ、翌年の春には彼女らと入れ替わりに2名のアルバイトを採用しました。